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茅葺き語彙・用語解説


語彙・用語解説                    

目     次

茅(かや)とはなにか
茅(かや)の産地
山茅の流通単位

ススキ属の植物学上の分類

岩手の茅葺民家
茅の地方性

茅の民俗学

萱・茅と葦・芦の語源と由来
茅(かや・ち)がもつ霊力について

かや(茅、萱)が入っている民謡

茅・茅葺き・茅葺民家の俳句




茅(かや)」とはなにか


 
茅または萱(かや)とは、広辞苑(第5版)によれば、屋根を葺くのに用いる草本の総称で、チガヤ、スゲ(菅)、ススキ(薄、芒)などである。
 もう少し専門的にいうと、茅(かや)とは、屋根葺き材料として使用されるイネ科植物の総称で、葦(ヨシ)、ススキ、カリヤス、シマガヤ、麦わら、稲わら等が含まれる。ヨシは水辺に生育し、欧米ではリード(reed)またはウオーターリード(water reed)と呼ばれている。 ヨシは、屋根葺き材料として腐りにくいので珍重されるが、普通ススキより値段が高い。より一般的に屋根葺き材料として使われるのが芒(薄、ススキ)で、山茅(ヤマガヤ)とも呼ばれる。岩手県では、茅といえば普通ススキを指す。中部地方では、小茅(コガヤ)と呼ばれるカリヤスが伝統的な茅である。地域によって、茅の種類はさまざまである。


わが国における茅の産地


 わが国における茅葺用ヨシの産地で有名なのが宮城県北上川下流の河川敷と青森県岩木川下流・十三湖周辺地区であるが、いずれも汽水域である。淡水域のヨシは汽水域のヨシにくらべて弱いとされているようである。
 一方ススキは、日本全国に植生があるが、茅場として管理されているススキ原(茅場)の数は少ない。東日本では、御殿場の自衛隊演習地内、茨城県渡良瀬用水地周辺、宮城県桃生郡北上町泣Xズキ産業の茅場などが知られているが、最近は、岩手県金ヶ崎町産業開発公社の茅場(商品名「南部茅」)も浮上してきた。西日本では奈良県の茅場、九州阿蘇山麓の茅場などが知られている。
 ススキの自生地は、高速自動車道路ののり面などにも見ることができるが、昔の村落共有地(里山)などにあるのが普通である。こうした里山の茅は、地元で一部刈り取られて差し茅などに使われる場合や集荷されて市場流通にのぼる場合もあるが、いずれもその規模は小さい。


山茅(ススキ)の流通単位


 
茅の計算単位あるいは流通単位は、地方によって様々な容量単位と呼び方がある。たば、こたば、しめ、駄などなどであり、その地方の茅の状態と刈取り作業の慣習によって異なっているようである。しかし、茅の流通が狭い集落単位から、いまでは県単位あるいは全国的規模で行われるようになったので、なんらかの茅の共通規格単位が求められるようになった。その先行モデルとなったのが宮城県の泣Xズキ産業が採用した山茅(ススキ)の標準規格(2尺〆)である。委員会では、岩手県内金ヶ崎町にモデル茅場を開発造成する過程で、協力企業であった泣Xズキ産業の規格を標準規格として採用した。 これは、現在同町の茅場経営主体となった金ヶ崎町産業開発公社も継承し、同社産の茅(商品名「南部茅」)の規格として採用している。いまこの山茅の流通単位は、広く市場の認知を得ているようである。

なお、取引単位として使用される「大束」は、小束(2尺〆)換算の4.5束である。


南部茅(小束2尺〆)の規格


 岩手県金ヶ崎町産業開発公社が同町の千貫石茅場及び六原茅場で生産・販売する山茅(スズキ)の商品名を 「南部茅」 と命名している。南部茅1束の形状   は、刈取った茅(ススキ)の茎の元から穂先までの長さが1.5メートル以上あること、 ビニール紐で茎の根元近くと、その上1メートル付近の2箇所を結束すること、茅束の下部の(茎の)径は約25センチであり、茎数は約500本を数える。 
 南部茅を含め、岩手地方で伝統的な茅の刈取り方式で収穫した茅は、概ね葉付きである。その理由は、晩秋の降雪以前の期間(11月初旬から12月中旬ころまで)に茅場で茅を刈取り、これを結束し、いくつかの茅束を寄せて島立てとし、根雪のなかで越冬させ、翌春融雪後に搬出し、倉庫に保管するので、葉が大部分付着しているので、そのように呼ばれる。方場で茅が立ったまま越冬すれば、葉の多くが落ち、半スグリ茅に近いものになるが、岩手のような根雪地帯では、茅株が根雪の重みで倒伏してしまうので、春になってからの茅の刈り取りは、品質面からみても、刈取の作業能率が著しく悪くなることからみても、採用できない収穫方式である。

これに対して、根雪のない地域(例えば宮城県、御殿場など)の茅場で成長した山茅(ススキ)は、倒伏することなく晩冬し、初春に立毛の茅株を刈取ることが出来るが、越冬中に茅はかなりの程度まで脱葉し、半スグリあるいはスグリ茅に近い状態になる。 従って、葉付き茅は、用途に応じて、手を使ったり、千歯等を使用して 茅の葉を1〜2割かた除去して半スグリ茅にするか、完全に葉を落してスグリ茅に加工する。
 
岩手の茅葺民家   瀬川 修(元岩手県立博物館学芸調査員)


 南部曲り屋(なんぶまがりや)


 岩手県北部に分布するL字型の民家。当地では単に曲り屋という。南部とは旧南部(盛岡)藩のことである。旧南部地域にのみ分布する。曲がりの部分は厩になっているのが特徴である。 似た造りに日本海側の「中門(ちゅうもん)造り」がある。中門造りは入口が厩の先(妻入り)にあり、中門口と呼ばれる。南部曲り屋は曲がり部分に大戸口という入口があって、厩を通路としない。
 南部曲り屋は江戸時代宝暦年間(17511763)にまでさかのぼることができる。厩が後で取り付けられた例もあり、曲り屋の発生や伝播を考えるうえでおもしろい。現存の曲り屋は実用としては非常にすくないが、各地に移築・復元され、資料館等にも利用されている。
 岩手県以外では、日本民家園(川崎市)、日本民家集落博物館(豊中市)、国営みちのく杜の湖畔公園ふるさと村(宮城県川崎町)などで見ることができる。
(
参照岩手県立博物館だより87、岩手県立博物館研究報告第18号


瀬川修著「南部曲り屋読本」 許ウ明舎出版、2007年7月10日発行、定価1,575円)


 岩手の民家(1)


 民家とは伝統的な様式でつくられた、庶民の住宅をいう。大きく見て、農民住宅と町家にわけられる。農民住宅はほとんどが茅葺きである。
 間取りは土間と居住部分からなり、土間はニワともよばれ、作業場を兼ね、家の半分から3分の1を占めることがある。居住部分は常居(ジョウイ)、納戸、座敷などからなる。常居はいろりのある部屋で「オカミ」という地域もある。ここで一日の大半を過ごした。納戸は寝部屋ともいわれる、夫婦の寝室である。
 座敷は畳の部屋であるが、ふだんは使用されない。座敷以外には天井は張られない。なお、土間にあるかまどは家畜の飼料や味噌、豆腐などを作るためのもので、雑水釜(ぞうみずがま)またはやだ釜とよばれる。
 間取りの型式で、ヒロマ(広間)型・整形四間(田の字型)・食い違い四間などがある。


岩手の民家(2)


現在の岩手県は明治9年(1876)に成立した。県北地方は旧盛岡藩(一部八戸藩)、県南地方は旧仙台藩領であった。そのため、県の北部と南部で文化のちがいがみられる。民家型式はその好例。有名な南部曲り屋は県北地方にのみ存在し、県南地方にはまったくみられない。県南地方には片入母屋という一方だけが入母屋となる民家がある。また、長屋門がつくことがある。
 岩手県全体としては、屋根形式は寄棟茅葺きの民家がほとんどで、小屋組は扠首(さす)組、棟おさえは芝棟または箱棟とする。7月下旬には俗に「かっこ草」(ヤブカンゾウ)と呼ばれるオレンジ色の美しい花が屋根のてっぺんに咲くのが見られる。


茅葺き屋根


 屋根葺き材には茅のほかわらや葦などが使われる。岩手ではほとんどが茅である。 茅葺き屋根は鳥や風雨によって年々やせていく。耐用年数は20年とも30年ともいわれている。その間に差し茅という補修が行われている。 腐食した部分を取り除き新しい茅を差し込む方法である。このような作業は「結い」などとよばれる相互扶助組織で行われた。
 茅屋根の保護で大事なことは風通しのよいことと燻煙(くんえん)である。特にいろりの煙は虫害などから茅を守ってきたと考えられている。 天井のない構造はこのようなところで役にたっていたようである。天井は家作規制があって、ないのが普通である。 しかし、あっても困っただろう。現在では炭を使うところが多いが、本来は薪を使った。煙がひどく、目に悪かったことは確かである。
茅屋根の大敵は火事である。近年は毎年のように、新聞に載った。2000年夏には、岩手でも貴重な曲り屋が燃えた。 明治初期の大きな屋敷であった。裸火を使う昔の暮らしでは、もっと火事は多かった。

 

ススキ属の植物学上の分類


戸田忠祐 (畜産コンサルタント、委員会副代表)



 「ススキ属は東洋に固有の植物で、約10種が知られている」(村松)。
飼料やいろいろな用途に応じて、かや(萱、茅)、おばな(尾花)、ススキ(薄)などと呼ばれており、一般には、呼び名と実物の間に認識上の混乱がある。
そこで、これまで発表された研究論文や資料をもとに、学術的なススキ属植物の分類を紹介する。

足立昇造氏は、国内広くからススキ属植物を集め、形態の変異や細胞学的な分析を通じて、あらためてススキ属の分類を行い、これをススキ節、 オギ節およびカリヤス節に区分した。その上でススキ節を

@ススキ:日本全土のほか、中国大陸、東南アジア諸島にまで分布する多年草で、 土壌を選ばず乾燥ぎみの陽地を好む。

Aハチジョウススキ:北海道から九州に至る主に海岸地域に分布し、海浜の岩場などの陽地に自生する。

Bトキワススキ:東海道以西、四国、九州に分布し、海に近い暖地の平地や丘陵地や堤防などの陽地を好むと述べている。


ススキ属植物の分類
ススキ属(Miscanthus Andersson)
1. ススキ節 : @ススキ(Miscanthus sinensis Andersson)
          Aハチジョウススキ(Miscanthus sinensis var.)
          Bトキワススキ(Miscanthus floridulus)
2.オギ節 :   @オギ(Miscanthus sacchariflorus)
3.カリヤス節 : @カリヤス(Miscanthus tinctorius)
          Aカリヤスモドキ(M.oligostachyus)
          Bオオヒゲナガカリヤスモドキ(M. intermedius)
 以上の分類によると、東北の開けた原野に自生するススキは、ハチジョウススキやトキワススキを含まない、いわゆるススキ(Miscanthus sinensis Andersson)であると言える。
 なお、ススキ節に共通する発生と生長の特性は、次のように要約できる。まず個体の発生は実生であり、地上部は、幼苗期を経て叢生しながら個々の株を発達させる。根茎(Root system)は、それぞれの株の基部から複数の分岐地下茎を放射状に年ごとに伸ばし、中心部は、順次枯死させながら株の径を大きくしてゆく。ススキは、独立した株からなり、地下茎では繋がっていない理由は、このような発生・生長をすることに拠っている。これは、地下走出枝を長く伸ばすヨシ、オギなどの根茎植物(rhizome plant)との決定的な違いである。
 オギについては、日本全土のほか、中国中北部やアムール地方に分布し、河川敷などの多湿な陽地を好むとしている。さらに、カリヤスは、岐阜県を中心とする中部山地に限って分布し、ススキに比べ桿が細く刈りやすく、合掌作りの屋根に、ススキ(大萱)とともにカリヤス(小萱)も使われるとしている。


(備考)この解説は、村松論文(畜産の研究1997)、足立論文(1958年)、原色日本植物図鑑(保育社1975)などに依拠しながら、岩手の茅場における知見をもとに、戸田忠祐(岩手で茅葺き技術の伝承を促進する委員会メンバー)が取り纏めたものである。


茅の地方性   

 茅、この場合「ススキ」(イネ科ススキ属)だが、全国の各地方には、さまざまな形質をもった、その地方独特の茅がある。またそうした地方的形質をもつ茅を使って葺いた屋根には、その地方の気象条件なども反映した独特の茅葺き技法が発達した。その結果、それぞれの地方に独特の風格をもった、風土性のある茅葺き民家が伝承されることになった。このことが、遭遇したいつかの事例を通じて、次第に明らかになった。以下は、筆者の聞書きなので、関心のある方々の協力で、内容がさらに充実されることを期待している。


岩手(根雪地帯)の茅
 岩手では、茅といえば、茅場で降雪前の11月から12月にかけて、まだ葉が十分着いている状態で根元から刈取り、束ね、その束のいくつかを括って地上に「シマ(シメともいう)」を立て、越冬させる。降雪して根雪となるが、シマは根雪の上に出ているから、倒れることはない。
 翌年春先の融雪後(3月から4月)、乾燥したシマを解き、茅束を茅場から搬出する。もし、茅場で茅をそのままの状態で越冬させれば、根雪のために茅は倒伏し、これを春先の融雪後刈取るとすれば、枯れた葉は茎から脱落するから、茅は、ほとんど茎ばかりとなり、しかも根雪の圧力で倒伏しているから、これを刈取ろうとすれば、作業上非常に困難な上に、曲がった根元を残して刈取るから、丈の非常に短い、価値の低い茅になってしまう。
 岩手の伝統的方法で収穫した葉の多く着いた茅で葺いた屋根は、一見して、柔軟な、温和な印象を与える。しかし、葉が多い分、腐りやすいといわれる。囲炉裏の火を絶やすな、と言われるのは、そうした理由からであろうか。


宮城(根雪のない地域)の茅
 北上川下流の宮城県桃生郡北上町は、北上川河川敷から採れる葦(ヨシ)が歴史的に有名で、全国を商圏とする茅の販売商人が何軒か昔からあった。葦の商売をしているうちに、全国各地の茅葺きを引受けるようになり、茅葺き職人の集団がこの地に生まれ、維持された。この地域には、今でも茅葺き棟梁が何人かいて、それを支える副棟梁格の職人グループがいる。皆農業の副業だが、同時に3軒の茅販売と茅葺き請負の個人企業があって、全国的な茅葺き事業を展開している。
 このため、当然ながら葦だけでなく、屋根葺き用の茅(ススキ)の需要が全国的に起こったので、こうした個人企業のなかには、近辺に茅場を開発し、茅の自給を図るものも現れた。その近辺の里山は牧野に開発されていたが、未利用面積も生まれたので、牧野を管理する市町村や牧野組合、共有地組合などから、茅場利用が歓迎されるようになった。刈取作業は、付近の農家が出来高払で請負う場合が多いようだ。この地域で生産される茅(ススキ)の形質は、上記の岩手の茅とは非常に違っている(委員会の現地調査の結果)。
 この地域では、茅は、春先3-4月に一斉に刈取り、結束して小束にする。岩手のように、前年の暮までに刈取るようなことをしない。この地域では、岩手と違い、雪はほとんど降らず、根雪がないから、急いで刈り取る必要がない。茅は茅場に立ったまま越冬するから、翌年春、乾燥した茅を根元から刈取ることが出来る。茅場では、そのまま軽トラックに載せ、搬出して企業の倉庫に収納する。このようにして刈取られた茅は、越冬中に葉をほとんど失い、茎、稈(穀物の茎)だけの茅になる。堅くて白く、細い葦のような感じになる。こうした茅(ススキ)は確かに腐りにくい。この茅で屋根を葺くと、非常にかっちりした、固い輝く感じの屋根になり、格調高い印象を与える。しかし、その反面、岩手の茅葺き屋根が持つおとなしい穏やかな印象は失われる。葦(ヨシ)葺きの印象と非常に似通ったものになる。
 この宮城と岩手の茅の形質の差は、根雪の有無という風土の差に根ざすようだ。


新潟(豪雪地帯)の茅 (新潟県小国町出身棟梁田中昇氏談)
岩手と同じような根雪地帯ではあっても、雪が4メートルも5メートルも積もる豪雪地帯の新潟では事情はまったく違ってくる。新潟で岩手のようにシマを作ってみても、雪はその上まで積もり、シマを潰してしまうので、島立ての意味がないことになる。新潟の平場の茅場では、降雪前に茅(ススキ)を刈取り、地上に散布しておく。茅は雪の下で越冬する。春先融雪後、4月末から5月の乾燥期に、地上から茅を手で掬い上げ、「反対側に体をひねって」さあっと広げながら地上に散布する。これによって、この乾燥期には、1時間もすれば、水分が飛んで、収納できる状態になる。この茅を束ねて収納する」。
このようにして収穫した茅の茎は太く、葉つきであり、全体的に頑丈で、豪雪地帯新潟の屋根を支えることができる。もし茎ばかりで葉の着いていない茅で葺いたとすれば、隙間に融雪水が入り込み、凍結して、茅束ごと抜け落ちる心配がある。また屋根の形も違う。「北鎌倉浄智寺の離れを葺いた茨城の古木棟梁の関東風の葺き方は、豪雪を考えた新潟のがっちりした固い線の屋根にくらべて、やさしく、温和な感じになっている。お寺さんの方も、「温和な感じの屋根に葺いてくれ」という注文だった。新潟の葺き方とは大分違う(田中昇氏コメント)」。
 これからも分るように、おなじ根雪地帯でも、岩手と新潟では生産される茅(ススキ)の形質は違うのである。茅は単なる自然の産物ではない。それぞれの地域の自然条件と調和しながら、それを使う人の意図が加わり、広い意味の管理のもとに採取される自然資源である。その結果、地方によって、茅の形質も、その茅で葺く屋根の形質も違ってくるようだ。「茅の地方性」とは、それぞれの地域の風土の産物としての茅のことである。


霞ヶ浦(栃木・茨城)周辺の水辺で採れる茅(シマガヤ)(ススキ属ではなく、クサヨシ属)
 北鎌倉の名刹浄智寺の離れを葺くために用いられた茅は(20013月)、霞ヶ浦周辺の湿地で採れたシマガヤであった。これは葦(ヨシ)ではない。屋根を葺いた古木棟梁(74歳、茨城県の栃木県境の村出身)によれば、シマガヤは、ヤマガヤ(山茅、山地、原野で生える茅、ススキ)に比べて葉が多く、腐りやすいという。この地域(関東)には降雪がないので、春先までの期間、冬場に刈取るが、余り長く茅場に置くと、油が抜けて、茅が弾力性を失うので、適当な時期までに刈取ることが必要であるとのこと。
(田中昇元棟梁(新潟出身)によると)浄智寺の離れに使われた茅は、茎が非常に細くて固く、また丈が短い(1.5メートル程度)うえに、茅束の根元の径は30センチ程度なので、軽くて扱いよい。しかし、豪雪地帯の新潟の屋根葺き材料としては不向き。なぜなら、葉がない茅で屋根を葺くと、春先融雪水が染み込み、凍結して、茅束がずり落ちる。


茅の民俗学  森 宏太郎 (民俗学研究者)


       萱・茅と葦・芦の語源と由来    


萱・茅(かや)について



 「萱」は「茅」とも書くが、後者は「ち」とも読む。神奈川県茅ヶ崎市という地名の中の「ち」がそうである。「萱」と「茅」は同じものであり、総称して「ちがや」ともいわれる。
 ところで、わが国には、万物に「神」が宿っていると見る神信仰があるが、その中で「萱・茅」を含め、「草」に宿る神を「鹿江比賣(かえひめ)」という。「日本書紀」に「草祖草野媛命(くさのおやかやぬひめ)と出ている神がこれである。阿波の国の式内社(注)に「鹿江比賣神社(かえひめ・じんじゃ)」があるが、「鹿江比賣」とは「萱・茅の女神」ということである。
 「日本書紀」で「草」を「かや」と呼んでいることからもわかるように、「萱・茅」は、草の代表と見られている。「かや」という言葉については、「毛弥(けや)」すなわち「盛んに茂る草」から来たという説と「カヤカヤ」と鳴る草の擬音語から来たという説がある。
しかし私は、「かや」の「か」には、「くさ」の「く」に通じた言葉なのではないかと思う。
この「くさ」は「茎」の「くき」に通じ、また、「木の神」の「句句廼智(くくのち)」の名の中にある「くく」に通じる言葉ではないか。これらの中の「か」や「く」ということばは、「植物」全体を意味する言葉ではないかと思っている。「く」と「か」とが通じ合うことは、「食(く)湯(ゆ)」から「粥(かゆ)」という言葉が生まれたことからも、そのように理解できるのではないか。
 以上が「萱・茅」の「かや」という言葉のいわれ(語源)であるが、「萱・茅の神」は、「植物(草・木)」の神の代表であることからも類推できるように、「萱・茅」は、「尊い植物」ともいえるのである。神社の屋根に「萱・茅」葺きの屋根が多いのも、このような由来によるのではなかろうか。
 ところで、「萱・茅」は「禾本科(かほんか)」の植物のことであるが、禾本科の植物には、神聖な植物とされるものがあり、その代表が「稲(いね)」である。わが国における最多の神社(三万社とも十万社ともいわれる)である「稲荷神社」は、「倉稲魂命(うかのみたまのみこと)」を祀っているが、この神は、その名の中に「稲魂」が含まれていることからもわかるように「稲」の神である。また、萱・茅に含まれる「すすき」は、「神聖な草」という意味のことばである。
 「芒・薄(すすき)」の「すす」は、「すす(雪ぐ)ぐ」の「すす」で「清める」という意味の言葉である。伊勢の皇大神宮内宮の入口には、「五十鈴(いすず)川」が流れているが、この川は、昔、身や口をすす(漱)いだ「禊(みそ)ぎ」の川であった。(自動車会社の「いすず」もこの川の名をとった。)また、「すすき」の「き」はアイヌ語で「草」を意味する「キ」から来ている。なお、「芒・薄」は神聖な草とされ、このため「月見」の際「月の神」に供えられる。
 また、日本人の姓で二番目に多い「鈴木(すずき)」姓の「すずき」も「神聖な草」ということである。また、石川県の能登半島の東端に「珠洲(すず)市」があり、そこには式内社の「須須(すす)神社」が祀られているが、いかにも神々しい神社である。
(注)「式内(しきない、しきだい)社」とは、約千百年前の延喜年間に制定された「延喜式」という法律の中で由緒正しく格式の高い神社として朝廷が指定し、勅使を派遣して幣を奉った神社のことをいう。二千八百六十一社(三千百三十二座)あり、「延喜式内社」または単に「式社」ともいう。またそれ以外の神社は、「式外(しきげ)社」という。


葦(よし)について 


 わが国の古称は、「豊葦原瑞穂国(とよあしはらみずほのくに)」というが、「葦が豊かに生えている湿地を利用して稲(「瑞穂」とは「稲」のこと)が豊かに稔る国」ということである。
 「葦」には、「あし」と「よし」との二つの訓(よ)みがあるが、「あし」が本来の訓みである。しかし、「あし」が「悪(あ)し」に通じてよくないとして、「善(よ)し」の「よし」と訓め替えたのである。
 不思議なことだが、戦後の総理大臣に「吉田」氏と「芦田」氏とが続いた。「吉田」は「田」を褒めた言葉かも知れないが、「芦田」であるかもしれない。「よしだ」から「あしだ」へ。その力量・手腕からいって、同じ外交官出身ながら、前者に比べて後者は大分見劣りがした。戦後唯一「国葬」の礼を受けた「吉田茂さん」の後を受けた「芦田均さん」は割りが悪かったかも知れない。「吉しだ」から「悪しだ」の名前の交替も悪かったともいえよう。
 ところで、「芦」だが、これは「葦」に比べて、「若く充分生育していない葦」ともいわれている。


「葺(ふ)く」について


 
「葺く」は、草を重ねて屋根を覆うことを指すことばだが、その草の代表は「茅」である(「藁」の場合も多いが)。「葺」がついた地名に、神戸市中央区に「葺合町」があり、中央区ができる前には「葺合区」があった。東京にも都になる前の東京市の「芝区」に「葺合町」(現在の虎ノ門四丁目の一部)があった。茅を葺く場合、茅と茅とをぴったりと「合」わせなければならないが、ここから「葺」と「合」ということばは、密接に結びついたことばであることがわかる。葺合町の地名は、まさに「葺」と「合」とが結合した地名なのである。
(筆者の森宏太郎氏は、日本民俗学会会員、元農政と民俗を考える会世話人であり、民俗学に関する多くの著書、論文がある。)


茅(かや・ち)がもつ霊力について(抜粋)


  −茅巻きと茅の輪などの例からー
「茅(かや・ち)」には、不思議な霊力を持つとする民俗信仰や民俗行事がある。 それが見られるのが「茅(ち)巻き(粽)を食べる習慣と「茅(ち)の輪くぐり」の民俗行事である。 「茅巻き」は、五月五日の「端午の節句」の際に食べる食べ物で、「茅の輪くぐり」は、六月三十日の「夏越(なごし)」の際に神社の神前に建てられた茅を巻いた大きな輪を潜る民俗行事である。 前者は、幼児の無業息災を祈るもので、後者は、夏以降を無事に乗り切れるようにとの願いを神にかけることに伴うものである。 これらは、「茅」が霊力をもっていると信ずるが故のものといえよう。 後者は、特に「熊野神社」など「スサノオノミコト」を祀る神社で行われている。    (以下略)


かや(茅、萱)が入っている民謡


 
相馬盆踊唄(福島)
道の小草に米なる時は山の木「萱」に金が生(な)る

 さんさ時雨(しぐれ)(宮城)
さんさ時雨か 萱野(かやの)の雨か音もせで来て濡れかかる
伊勢音頭(三重)
伊勢へ伊勢へと萱(かや)の穂もなびく伊勢は萱葺(かやぶき)こけし葺(ぶき)
刈干切唄(宮崎)
屋根は茅葺き(かやぶき) 萱壁(かやかべ)なれど 昔ながらの千木を置く
博多節(福岡)
百万石の 知行取るよりお前の側(そば)で竹の柱に 萱(かや)の屋根手鍋さげても 厭いやせぬ
湯瀬村コ(秋田)
湯瀬村コ ヤアエー 湯瀬村コ行けばデヤアー 木の中萱(かや)の中エ(ハエ)  
稲上げ唄(宮城)
山に木の数 野に萱(かや)の数黄金たんぼに はせの数
南部牛追唄(岩手)
サンサ歯朶の中の 茅野(かやの)の兎親が跳ねれば 子も跳ねる
(岩波文庫「日本民謡集」より) 

 

茅と茅葺きと茅葺民家の俳句


延平 いくと

曲り家の辰巳開きに端居かな

曲り家の掛け場所探す夏帽子

曲り家の蚊帳の中なる打碁かな


星野麦丘人

日影より水の音せり野刈萱

なぜ婆がこの道にゐる茅萱(ちがや)かな

のっけから犬走り出す白茅(ちがや)かな

明日晴れむ近江刈安(かりやす)西山に

昼月や白が気になる冬芒

冬すすき日暮れのやうな切通し


その他

屋根替の萱束ねあり能舞台  滝沢伊代次

白川郷葺替の良き日和得し  伊東宏晃

刈伏せの青萱空の匂いせり  熊谷愛子

刈り伏せの萱に日渡る裏秩父 上田五千石

萱刈って村人歌舞伎演じをり 加藤三七子

またひとり遠くの芦を刈はじむ 高野素十

目さむれば貴船の芒生けてありぬ 高浜虚子

みちのくの風の冷めたき芒かな 高橋淡路女

金の芒はるかなる母の祷りをり 石田波郷

をりとりてはらりとおもきすすきかな 飯田蛇笏

穂芒や山の夕影倒れくる 徳山山冬子


吉岡 ゆたか

道標は薄の高さ浅間晴る

山波のあるは穂薄燿へる

萱さやぎ障子しばしの陽の溜り

退院や芒野ひかる雨のなか

曇り日の屋根葺く音や弥生尽

はくれんや屋根葺きがゐる昼下がり

桐の花曲家二軒戸は閉じて

曲り屋をかすめてわかしおにやんま

曲り家に人ゐる気配十三夜

百年を経て曲り家の隙間風